戦後の復興から現在まで

戦後の会報第一報に当時の状況がまとめられている。
  →BYC_REPORT_1946年09月03日

■艇の接収

滋賀県終戦委員会より要請があり、検討の結果、国内5m級2隻、国際A級8隻を供出。昭和21年4月に完全修理の上、引き渡した。琵琶湖ホテルに来る進駐軍が使うもので、これに対し県から小額ながら2万円が支度金を渡してくれる予定、との記録

■艇庫の状況

昭和20年11月まで吉本正雄氏(昭和21年4月24日に逝去)が管理していたが、その後は荒れるに任せる状況であった。昭和21年4月からは、大林組が臨時販場として使わせてくれとの申し出があり、7月21日に返還を受けている。その御礼として建物の修理を一通り直してもらった。

■関西ヨット協会の誕生

近畿ヨット協会と大阪湾ヨット協会が合わさり、関西ヨット協会が設立された。昭和21年6月9日に大津市役所にて設立総会が開催されている。

昭和21年11月に琵琶湖にて国民体育大会が開催される(第1回京都国体)。

■京都体育協会ヨット部

京都体育協会が昭和21年4月23日に誕生、全国国民体育大会の京都・滋賀予選大会を9月12-13日に開催した。

■全国国民体育大会

戦前の神宮大会に代わるべきものとして第一回京都大会が開催、ヨットは琵琶湖柳ヶ崎で行われた。準備打合せは上田健治郎氏宅で開催されている。

■島津ヨット部

昭和21年8月2日に誕生、BYC柳ヶ崎艇庫南側に艇庫を建設した。

■T型艇3艇の建造された

テリーボートの図面を元に、柿坂工作所にて建造された。進水は昭和23年10月、Blue Flower, Red Flower, White Flowerと命名された。

■艇の買戻し

進駐軍に供出した十艇の内、5m艇2隻、A級4隻を買戻した(昭和24年)。内A級2隻は立命館大学ヨット部に譲った。

■ジェーン台風による被害

昭和25年9月3日、台風被害を受け、艇庫大破、幸いにも艇はスカル2艇が壊れたのみで無事。復興は協議の末、第一艇庫は自らの手で煉瓦造りの建物を建設しようという事になり、以降メンバー総出で作業を行い、翌26年7月に完成式を執り行った。
さらに、昭和28年には、第2艇庫の再建を行った。

■活動の沈滞化

しかし、昭和27(1952)年頃から、クラブ員の足は遠のきがちになり、メンバーが来ない週末も多くなり、昭和28(1953)のBYCのレポートでは、どうしたら活動を活発化できるか等の議論がなされている。過去にクラブ活動を引っ張って来られたリーダーが老齢化し、またヨット連盟の業務の兼務に追われる中、若いクラブ員が離れていく現実があったようだ。

島津ヨット部 昭和21(1946年)年

京都ヨットクラブ 昭和22(1947)年

煉瓦造り 第一艇庫再建工事  昭和25(1950)年

煉瓦造り大地艇庫完成 昭和26(1951)年

T型艇3艇進水式 昭和23(1948)年

T型艇3艇進水式 昭和23(1948)年

BYCベランダにて 
○、中塚善助氏、長谷川和之氏、上林氏

BYCベランダからの眺め(柳ヶ崎方面)

BYCベランダからの眺め(浜大津方面を望む)



■滋賀県ヨットハーバーの竣工

1962(S37)年に完成。県は柳ヶ崎浜付近を大々的に埋め立てを行い、ヨットハーバーを建設した。現在の柳ヶ崎ヨットハーバーであるが、従来のBYCがあった柳ヶ崎浜より100m位沖まで埋め立てられた。この工事のため、BYCは約3年間艇を仮設艇庫に移動させていた。

艇庫立ち退きの代償として、県より補償金額が示され、KYCはその際現在の際川に代替地を求め、移動したが、ヨット連盟の活動に深く根を生やしていたBYCは当時滋賀県連会長を務められていた上田健治郎氏(BYC会員)の強い慰留を受け、新しい県ヨットハーバーに入居することとなった。

ハーバー完成と共に、艇庫3スパンのスペースを立ち退きをした代償として、以降無償無期限の艇庫使用を許された。

BYCレポート1959年11月2日 浜埋立に関する県公聴会
BYCレポート 1960年9月26日
柳ヶ崎BYC県艇庫無償使用に関する請書 1963年6月28日
柳ヶ崎共同艇庫団体配分案 1963年
柳ヶ崎艇庫移転に伴う移築保証に関する補償額評定通知


滋賀県柳ヶ崎ヨットハーバー(BYC艇庫)

滋賀県柳ヶ崎ヨットハーバー 昭和37(1962)年〜



■ヨーロッパ級の導入

その中、1968(S43)年になって、西之園氏がフランスよりヨーロッパ級の設計図を持ち帰り、日本で最初に導入(J1:現在も艇庫に現存する)日本ヨーロッパ級協会を設立。以後、KYCも合わせ、多くのヨーロッパ級が普及した。

  →EUROPE協会便りNo.1_1968年8月20日

翌1969(S44)年には、第1回ヨーロッパ級全日本大会をBYC主管で実施、以降、クラブ活動と合わせ、ヨーロッパ級のクラス活動にBYCは積極的なサポートをした。

1974(S49)年には、BYC、KYC合わせて6名がノルウエー、ホルデンで開催された、ヨーロッパ級世界選手権に遠征、参戦している。

なお、西之園氏は、その後、レーザー級も琵琶湖地域では初めて導入されており、氏の先見性はBYCの方向を大きくリードするものである。

  →第3回ヨーロッパ全日本大会 1971年9月
  →ヨーロッパ世界選手権遠征 1974年7月

■長谷川英一会長

1968(S43)年、長谷川英一会長になり、BYCの新会員募集を行い、若手メンバーの募集を図った。ヨーロッパの普及と合わせ、BYCの活動も一気に活発化した。

  →会長杯レース 1971年

比叡レガッタの開催

1969(S44)年8月、KYCとの対抗戦「比叡レガッタ」を若手メンバーが企画、以後毎年の恒例行事として行われるようになった。

  →比叡レガッタ特集ページ

■遠航会 1971(S46)

ディンギーを繰り出し、南比良の民宿に一泊する遠航会を実施、多くのメンバーが参加、活動活発化の現れとも言える。

  →遠航会 1971年5月

琵琶湖カインドレガッタの開催

1973(S48)年、鈴木英、城章両氏の提案・企画で、あらゆるヨットが同時にレースを楽しめる、ハンディキャップレースを日本で初めて実施、ヤードスティックナンバーを元にビワコナンバーを定めた。第一回大会は、参加艇種23艇、出場艇数100艇、選手170名の大きな規模となった。以後、BYC主催のレースとして毎年続くようになった。

  →BKR1973実施要項
  →BKR1973帆走指示書
  →ヤードスティックナンバー('78びわこナンバー)
  →第3回カインドレガッタ 1975年5月5日
  →第6回カインドレガッタ 1978年5月5日

■琵琶湖ジュニアヨットクラブ(BJYC)の発足

1975(S50)年、城氏、松田氏等が中心となり、滋賀県連、京都府連と合同で琵琶湖ジュニアヨットクラブを設立、ジュニアメンバーの育成が開始された。発足当初はジュニアメンバーの半数以上はBYC会員の子弟であり、活動の拠点をBYCクラブハウス内に置き、日曜日は家族連れで賑わいを見せていた。しばらくして、BYCの活動からは別組織として独立した。

BYCクラブルームの改築 1975(S50)年

坂啓智会員の献身的な努力により、艇庫の一部を本格的なクラブルームとし、2階に更衣室とロッカールームを完成した。

■NHK TV「昭和回顧録」放映 1978(S53)年8月2日

NHKTV「昭和回顧録」8月2日NHKでBYC中塚善助会員が大正末期から昭和初期にBYCのヨット活動を16mmフイルムで撮影した「湖面に映える白帆群」を放映し日本ヨット協会小沢吉太郎氏とBYC長谷川英一会長が対談したNHK教育番組チーフデイレクターの上野重喜氏より中塚善助氏撮影のフイルム6巻を2巻にプリントしてBYCへ寄贈された。
昭和回顧録の放映を小橋会員がビデオ録画更に同じビデオカセットを関西テレビニュース解説委員美保達郎氏から長谷川会長の喜寿の祝として贈呈された。


以降、NHKのライブラリーにも保管されており、何度か当時の模様を報じるため、この映像を放映されている。当時の様子を探る大変貴重なフィルムとなっている。

  →各誌の記事

■クラブ艇の購入

1984(S59)年、クラブ艇としてヤマハシカーラ2艇を購入、それぞれ由緒ある「晴嵐」「晴朗」と命名した。7月15日に進水式を行った。

■再び活動の沈滞

若手メンバーが業務多忙となり、活動から離れる中、BYCの活動も沈滞化するようになった。活動もシングルハンドのレーザーを中心とした個人的活動となり、クラブとしては、かろうじて比叡レガッタとカインドレガッタを開催する程度となった。

■ディンギーレーシングの開催 1990(H2)年

BYC行事としてではないが、レーザー柳ヶ崎フリートとして、青木英明氏、秋山紀夫氏等を中心に月例レースを年間を通して開催した。レベルの高い、短時間に集中した格好の練習レースとなり、シングルハンダーの輪が大きく広がった。

以降、レーザー級の活動が活発となり、かつてのヨーロッパ級と同様、琵琶湖地域開催のレースを多く主管するようになった。

レーザー級での会員の活躍は目覚しく、秋山紀夫氏は全日本で2度タイトルを取得、1994(H6)年和歌山で開催された、レーザーマスターズ世界選手権で優勝するなど活躍をしている。

■BYCシンボル艇の復元

1992(H4)年に老朽化していたEZ艇を吉本哲男氏が手作業で修復、1995(H7)年にこれも艇庫奥に立てかけられていた、パイオニア号(テリーボート)を長谷川和之氏の厚意により杢兵衛造船で帆走可能な状態に復活させた。日本でも最古級のディンギーが2艇帆走可能な状態になった。

  →「パイオニア」修復披露会 1996年1月28日
  →「パイオニア」再進水式  1996年7月14日

■琵琶湖カインドレガッタでパシュートレース採用

1994(H6)年、青木英明氏の企画で、遅い艇から順にスタートさせ、フィニッシュを同時に行う、パシュート(pursuit:追跡)方式を日本で初めて採用した。これにあたっては、大谷タカヲ、斎藤愛子両氏から、英国における協議方法の指導を受けた。

  →1994年カインドレガッタ 1994年7月24日

■県営柳が崎ヨットハーバー竣工とBYC

1996(H8)年、現在の新艇庫棟が竣工、運営も滋賀県営柳が崎ヨットハーバーとしてされるようになり、新艇庫棟への入居により、BYCは以前の補償事項であった無償無期限ではなく、一入居団体としての位置付けとなった。

この入居にあたっては、沈滞気味の活動の中で、新艇庫の高額家賃を支払っていけるか、クラブ内でも論議を重ね、結果、活発な活動を続けているレーザーフリートのメンバーを中心に新メンバーとして会員に取り込み(18名増加)、新たな態勢で発足することにした。

■クラブ艇の導入(テーザー級2艇)

1997(H9)年、BYC活動がレーザーの個人活動が中心になりがちな中、従来のクラブ艇(シカーラ2艇)も老朽化し、自艇を持たないメンバーの便宜を図るため、テーザー級2艇をクラブ艇として購入し、シカーラと同じく由緒ある「SAILIN」「SAILEY」と命名した。

テーザーは、ファミリーでも楽に乗れ、しかも高性能な国際クラスで、1999(H11)年には、浜名湖で開催された世界選手権に蜂須賀氏、森氏、奥村氏で参加、女性スキッパー部門で優勝する等、活躍もあり、大いに活用している。

  →テーザー進水式 1997年5月18日
  →テーザー世界選手権(浜名湖) 1999年9月

SAILおおつの開催

1998年、大津市市制100周年行事の一環のいノミネートすべく青木英明、本田和也、長谷川各氏が中心ととなり、大津の湖岸から見られるヨットレースをとの企画が持ち上がり、長谷川氏の骨折りにて京都新聞社の主催として「SAILおおつ」を、従来行われていたカインドレガッタを発展継続する形として実施した。第一回は約150艇の参加を得て、盛大に執り行われた。

以降、毎年の恒例行事とすべく継続実施しており、2002年からは、KYC、KSYCとの協力体制で開催していく予定。

  →第1回SAILおおつ 1998年10月10日
  →第2回SAILおおつ 1999年10月10日
  →第3回SAILおおつ 2000年10月15日
  →第4回SAILおおつ 2001年10月21日

■艇庫内の整備

効率的に艇を収納すべく、1997(H9)年に、シングルハンドの収納ラックを考案・製作し、大量導入した。

  →シングルハンダー収納ラック製作 1997年1月

また、2001年には、くつろぐ居住スペース確保のため、青木英明氏を中心にウッドフロアを自作、艇庫内の効率化を図った。

  →ウッドフロア製作 2002年2月

ヨーロッパモス

ヨーロッパモス

カインドレガッタ
第3回大会 国内初のゲートスタートの
パスファインダーをEZが務める

クラブハウス改築  1975(S50)年
完成時 長谷川英一会長

読売新聞 TV欄番組案内 1978年8月2日

蘇ったEZ級「SVARA」号

パイオニア復元
左から、杢兵衛造船 仲野社長、長谷川和之、吉本哲男、青木英明の各氏

BYC創立当時からある丸木をくりぬいたかカヌー「LELE」は、現在、近江舞子ホテルに置かれている

シングルハンダーラック製作 1997(H9)年1月

クラブ艇 テーザー級 2艇の進水式
シャンパンは名倉海子氏
1997(H9)5月18日

テーザー進水式 記念撮影

テーザー「SAILEY」の帆走

クラブ艇 テーザー「SAILIN」の帆走

第1回SAILおおつ 1998(H10)年10月10日
京都新聞社撮影

第1回SAILおおつ 1998(H10)年10月10日
京都新聞社撮影

第2回SAILおおつ 1999(H11)年

第2回SAILおおつ 1999(H11)年

ウッドフロア建設 2002(H14)年2月


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