戦前の活躍期、日本ヨット倶楽部復興と琵琶湖ヨット倶楽部


ユングフラウ号を失い、暫らく活動は停止状態だったが、昭和5年(1930年)秋、再びメンバーが集まり、活動を再開する。
倶楽部としての形態はここから形成されたといっても良い。

■日本ヨット倶楽部の復興

昭和5年(1930)、帆走倶楽部としてクラブ活動復興、
翌昭和6年(1931)に尾花川艇庫を建設するが、クラブ組織として発足したのはこの時からのようである。

日本ヨット倶楽部としての活動は非常に活発で、資料にあるがごとく、倶楽部としての趣意書、規約、そして、鈴木英氏、吉本正雄氏らにより翻訳されたルールブックやヨット教範の発行など、日本における「ヨット」を競技スポーツとして立ち上げる役割を見事に先導している。

→日本ヨット倶楽部 趣意書 昭和6年
→日本ヨット倶楽部 部員規約 昭和6年
→日本ヨットクラブ事業概説

→ヨット教範 昭和7(1932)年 吉本正雄 著
→競走規則 昭和7(1932)年 吉本正雄 著
→帆走スポーツの研究方法について_吉本正雄_S10

→日本ヨット協会規約 昭和12(1937)年2月

日本ヨット倶楽部 趣意書     部員規約

ヨット教範(昭和7年)  競走規則(昭和7年)

日本ヨット協会規約 昭和(1937)12年
■昭和初期の状況

以下、舵誌(1982年6月号)記事より抜粋する。

1930年(昭和5年)
 有志を集い、復興を議す。

1931年(昭和6年)
 大津の井口造船所で、国内5m級2艇「晴嵐(SAILAN)」、「晴朗(SAILO)」を建造。また、日本ヨット倶楽部尾花川艇庫を建設し、この2艇を格納する。
 この年、大国寿吉大阪商科大学教授が会長に就任。
 また、YRA常任事務局長ヘックストール・スミス氏に依頼してルール・ブックを入手し、吉本正雄、鈴木英の両氏により邦訳する。

1932年(昭和7年)
 国内5m級「晴玲(SAILEI)」、「晴淋(SAILIN)」の2艇を大津の桑野造船所で建造する。この頃より、神戸の外人ヨットクラブKRACとの交流が始まり、帆走指導を受ける。また、KRACのメンバーテリー氏が日本ヨット倶楽部の客員となり、瀬戸内海に浮いていたナックル型艇を琵琶湖へ回送した。この艇は、テリーボートと称して、今も艇庫に健在である。
 次に、英国RYAより国際12ft級の設計図を入手し、10艇を大津・桑野造船所にて建造する。
 また、この年は、日本ヨット協会設立に伴い、クラブ名称を琵琶湖ヨット倶楽部(BYC)と改称する。と同時に、11月に西部日本ヨット協会を設立し、大阪毎日新聞本社にて創立総会を開催する。

1933年(昭和8年)
 A級12ftを10艇建造する。九州帝国大学ヨット部よりの依頼で2艇を分譲する。この年に、同志社ヨット部はBYC内に創立し、BYC艇を使用し練習を始める。また、西部日本ヨット協会が主催し、BYCの協力の下、西部日本ヨット選手権大会が開催される。

1934年(昭和9年)
 室戸台風により艇庫全壊。陸置きしていた国内5m級が、100m先の国道まで飛んでいったという。

1935年(昭和10年)
 艇庫再建竣工式。琵琶湖帆走学校開設・京都大学ヨット部がBYC内で創立、BYC艇を使用し帆走指導を受ける。同ヨット部は9月にA級ディンギーを3艇建造している。この年の第8回明治神宮大会(11月3日、横浜ヨットハーバー)に、BYCから参加、とこの年は、多くの行事があった。

1936年(昭和11年)
 BYCの吉本善多選手がベルリン・オリンピックへ出場。また、鈴木英氏がドイツより取りよせた図面をもとに、E.Z.(EINHEITS ZEHNER)級を桑野造船所で建造。E.Z.艇はBYCのシンボルともいわれる姿を現在に保ち、琵琶湖カインドレガッタではパス・ファインダーとしてその勇姿を見せてくれる。

昭和5年 尾花川艇庫 
5m級が並んでいるが、右手、「NIPPON YACHT CLUBのオーニングがかぶせられているのが、台風で大破し、陸揚げされた「ユングフラウ号」である。

5mクラス(尾花川にて)

日本ヨット倶楽部 5mクラスレース
昭和6年(1931年6月)
■尾花川艇庫から柳ヶ崎艇庫へ

 
BYC沿革の一節    宮崎晋一氏が昭和34年10月31日に記述

・晴嵐、晴朗の二艇(艇長16呎、メンスル及びジブの二枚帆、共に井口造船所で建造、日本ヨット協会設立後、暫定的に「国内五米艇クラス」にランクされた)及び同型の晴玲、晴淋の二艇(この此の二艇は前二艇より一年後に桑野造船所に於て建造)計四艇を格納するために、艇庫を尾花川湖畔(旧大津商業学校前の浜)に立てたのが昭和六年であった。

・昭和七年秋、県の事業として尾花川湖畔埋立計画が決定し、艇庫の立退きを要求された。


・手近の湖畔でヨットハーバーとなる可能性の箇所を探した結果、柳川尻(現在艇庫の在る所)の一角を借り受けて艇庫を建てることになった。当時、この地は大津市の塵芥の捨て場であった(艇庫建設後二十五年間、浜の整地に努力を続けて休日毎に異物の除去に専念して来たが、今日でも、陶器や瓶類の破片が少なからず出てくるのを見てもその事は考察される)。

・艇庫建設の基礎を造り、浜を作るために昭和バラスト会社に特にお願いして、野洲川川原から同社の砂利舟でバラストを何十隻も運んでもらった。その実況の一部は中塚善助氏撮影の十六ミリ記録写真におさめられている。

・斯様にして基礎が出来たので、此所に永久的の艇庫を建てる為のその工をミラノ工務店に依頼した。


・是より先、英国に注文していた国際単一型十二呎Aクラスディンギーの設計図とフレームのモールドが到着したので、それによって、規格に適合する小型ヨットを造ることを決議し、桑野造船所にその建造を依頼した(十艘)。

・ミラノ工務店に依頼した艇庫は前述の
    十六呎艇 四艘と
    十二呎艇 十艘と
を平面に格納し得る程度のもので、艇庫内から水中へレール六條を敷設し、同時に三ヶ所から艇の出し入れ出来るものであった。昭和八年のことである。因に尾花川の旧艇庫の立退き、新艇庫の建設に当って、立退料、移転料等は全然要求もしなかったし、下付も受けていない。

・付記
 昭和九年の初めと記憶する。琵琶湖ホテルの建設が確定した時、或る新聞に、「琵琶湖ホテルの建設予定地は琵琶湖ヨットクラブ艇庫の東方約150メートルの地点を中心として 云々」と記載されていた。(その新聞の切抜きを探しているが見当たらない)

  以上    
           文責 宮崎晋一(昭和34年10月31日)

柳ヶ崎艇庫
左より、第2艇庫、第1艇庫、クラブハウス

A級ディンギー進水式記念撮影
BYC創設当時のメンバー、前列真中は、初代大国寿吉会長
昭和8年4月

琵琶湖ヨット倶楽部ペナント
於・柳ヶ崎ヨット艇庫
左から、?、長谷川英一、安田貞一郎、宮崎晋一、各務吉三(昭和七年)
■BYC創設当時の記述

私のヨット50年(舵1975年4月号への寄稿文書より)

                                             大村 泰敏
びわ湖の状況

目を転じて西の方を見よう。関西では上田健治郎氏(故人、元日本ヨット協会副会長)の話によると、琵琶湖にヨットが浮かんだのは、ほぼ明治40年頃であるという。京都の染色工場の木村勘兵衛氏と亀井辰次郎氏(○り善社長)が神戸の垂水からヨットを運び琵琶湖で帆走したのが最初だったとのことである。

大正になると、北川弥一氏(当時、太湖汽船社長)津田○右治氏(当時太湖汽船白石丸船長)絹川清氏などが、それぞれ5m位のヨットを作りセーリングを楽しんでいたようである。

大正12年*(1923年)春、ボート選手をしていた上田氏と同窓の京一商の卒業生によって京商漕艇クラブを設立され、同年8月には勝郎型の12呎ヨットを入手して帆走が始められた、そして翌年12月には大津の桑野造船所で全長30呎重さ3.5tのイギリスノーフォーク型キールヨットが完成し、「ユングフラウ」と命名された。

ユングフラウは大正14年に7月に琵琶湖周航を行ったが、同年8月の台風で繋留中に大破し、使用不能となったので、京商漕艇クラブも一時解散の止むなきに至った。しかし上田氏は昭和4年秋に12呎のヨットを建造し「K」と名付けて再びセーリング活動を開始した。そして、昭和5年の秋、元の京商漕艇クラブの有志が集まり、新たに日本ヨット倶楽部が設立された。

日本ヨット倶楽部は昭和6年5m艇2隻を建造し、それぞれ「晴嵐」「晴朗」と命名し、ユングフラウの失敗を生かして大津市尾花川湖畔に建設された艇庫に格納されることになった。

翌7年には同型のヨット2隻が建造され、「晴琳」「晴玲」と命名された。ここに至ってようやくクラブらしいフリートを所有することになったわけである。昭和7年(1932)上田健治郎氏、宮崎晋一氏、北沢清氏など関西からの呼びかけで日本ヨット協会が設立される運びになった。当時、日本ヨット協会の下部組織は、まだ東部日本ヨット協会と西部日本ヨット協会の二つだけであった。なお、日本ヨット協会の設立に伴い日本ヨット倶楽部は琵琶湖ヨット倶楽部と名称を改めることになった。

*注)京一商漕艇部OB有志で結成したのセーリンググループがBYCの発足にあたるわけだが、上記記述では大正12年となっているものの、大正11年が正解のようである(長谷川英一氏が確認)。

西部ヨット協会設立総会
大阪毎日新聞社本社
昭和7(1932)年11月23日

大阪毎日新聞 昭和7年11月15日
西部ヨット協会設立を報じる記事
日本ヨット倶楽部でA級10隻を建造に着手の記事

昭和10年頃の柳ヶ崎艇庫クラブハウス
稲架のあるところが後にKYCとなったところ
第1回西部日本ヨット選手権大会

昭和8年(1933)8月18-20日に西部日本ヨット協会主催にて開催された。

→第1回西部日本ヨット選手権大会要項 昭和8年8月


第1回西部日本ヨット選手権大会
於・柳ヶ崎沖
昭和8年(1933)8月18-20日

同左

同上

同上
■第1回全日本ヨット選手権大会 昭和8年10月20-21日)
於・品川沖コース 優勝 A級ディンギー 吉本善多

第1回全日本ヨット選手権大会 於品川沖コース
昭和8年10月20-21日

Aクラスディンギー
BYC柳ヶ崎艇庫前にて 長谷川和之3歳
昭和8年

Aクラスディンギーと同志社Z6
長谷川英一氏と和之氏
昭和8年

Aクラスディンギー 於・柳ヶ崎艇庫前
昭和8年

BYC艇庫前広場にて(柳ヶ崎)
昭和8年

長谷川宣夫、吉本正子、長谷川昭、吉本哲男
日本ヨット倶楽部の十字ペナントに注目!
於・尾花川艇庫(昭和6年)

長谷川和之、長谷川昭、吉本哲男、吉本正子
柳ヶ崎艇庫前にて

長谷川昭、長谷川宣夫


■日活女優を迎えての撮影会(昭和8年)

昭和8年、太湖汽船(現琵琶湖汽船)の宣伝のため、夏川静江、伏見信子、市川春代らが訪れ流行のファッションや水着姿でカメラに収まった。

BYCメンバーと日活女優  柳ヶ崎浜(昭和8年)

 5m級 SAILIN      SAILAN  SAILIN
    夏川静江       夏川静江 伏見信子


モデルヨットは吉本哲男氏が
テリ-氏からプレゼントされたもの


■KSC(神戸セーリングクラブ)との交流とテリーボート「パイオニア」号 昭和8年(1933)

昭和7年、KRYC(神戸外人ヨットクラブ;Kobe Royal Y.C.?)のE. B. Terry氏と交流を深め、BYCの客員として名誉会員の称号を与えた。1933年8月6日には、KSC(Kobe Sailing Club)を招聘してBYC対KSCの対抗戦を催している。その際にTerry氏は琵琶湖にて自艇を進水させたと記述がある。これが、その後寄贈され、現在も現存する「パイオニア」号(通称テリーボート)と思われ、その設計図(BYCで原本保管)を元に、後々も同型艇をBYCで建造している。

「パイオニア」号は現存している(しかもセーリング可能)ディンギーの中では日本最古と思われる。

このKSCとの交流を通じ、クラブ運営、レース運営について大いに学んだようである。

なお、Terry氏は翌昭和9年9月の室戸台風の際(BYCでも艇庫が全壊した)に、神戸のハーバーで船を舫いに行き、岸壁から落水、事故死されたとのこと。

→BYC WEEK NEWS 1933年7月9日
→BYC WEEK NEWS 1933年8月27日

→「パイオニア」修復披露会 1996年1月
→「パイオニア」再進水式 1996年

→パイオニア修復完成毎日記事 1996年1月27日
→パイオニア修復記事京都 1996年1月29日
→パイオニア修復記事中日 1996年1月29日
→パイオニア修復産経記事 1996年1月29日
→パイオニア再進水式朝日記事 1996年7月16日

E.B. Terry氏 (吉本氏所蔵)

T型艇 (戦後)

テリーボート セーリング
小橋氏

パイオニア号(テリーボート)修復
杢兵衛造船に依頼(左が仲野社長)
1995年12月 近江舞子ホテルにて

パイオニア号再進水
1996年7月14日
近江舞子ホテルにて再進水式パーティを催した
→アルバムへ



■E.Z.(EINHEITS ZEHNER)の建造  昭和14(1939)年進水

1936年、吉本善多氏がベルリンオリンピックに出場(クラスはオリンピアヨレ級)、帰途、現地の府フリーとを視察して10月に帰国した。その土産話と写真から、ドイツのレークボートに魅せられ、鈴木英氏がドイツより設計図を取寄せ(BYCに現存)、桑野造船所にて建造された。艇名は「SVARA」(梵語で「空」という意味)、セールエリアは10m2と制限を加え、後は自由設計のクラスらしく、水線長が長く、ビームは細く、フリーウォーターが低い特異な船型で、ガフリグだが、ガフは垂直に近く、アスペクト比が高くスループに近いセールプランは、当時にしては近代的で、その戦闘的なシルエットは非常に美しい。当時は限られたセール面積でハルの性能とスタイルを競った。その大変美しい艇は現在も帆走可能に保存され、BYCのシンボルともなっている。

同艇は老朽化が進んでいたが、1992年に吉本哲男会員の労にて修復作業行われ、1999年のSAILおおつでも、その勇姿を湖上に披露している。

→1999年の帆走写真
→1999年 SAILおおつでの帆走風景

EZ 当時のセーリング風景

同左

EZ セーリング風景

1972年撮影

第3回ビワコカインドレガッタ
ゲートスタートのパスファインダーを努める
1975年5月5日

第2回SAILおおつでの帆走風景
1999年10月10日

■カヌー「LELE」

丸木を繰り抜いたアウトリガーのカヌー
戦前、南洋委任統治であったどこかの島から会員により持ち帰られたもの。

カヌー「LELE」 丸木船

現在の「LELE」
長谷川会長の厚意で近江舞子ホテルの庭に展示されている

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