戦時中から終戦における活動(昭和13年〜21年)
■戦時中の活動 昭和13年(1938)年には、上田、各務、吉本、安盛氏と中心人物が出征、BYCの活動も徐々に困難になっていく。 ■クラブ名の改称 戦時色が強まる中、昭和18(1943)年8月より、「琵琶湖ヨット倶楽部」の名称を改め、「琵琶湖帆走艇修練会」とすることになった。 →琵琶湖ヨット倶楽部レポート(1943年6月26日号) →琵琶湖ヨット倶楽部レポート(1943年7月13日号) →琵琶湖ヨット倶楽部レポート(1943年8月1帆走日号) 大東亜戦争(太平洋戦争)に発展するとともに、国内のスポーツは全て国防目的の方向に転換し、日本ヨット協会も日本体育会帆走部会(昭和17年)となり、ねらう処は国防海洋思想の涵養と海洋技術の一端の習得とに変わった。その中でBYCも本部の方針に合わせるべく苦汁の決断を行った。 もちろん、終戦後は自動的にBYCの名称は復活することとなった。 ■帆走選士資格検定標準 上記、日本体育会帆走部会(日本ヨット協会)として、帆走選士資格検定標準が定められている。目的は上記の様に国防強化のため、海洋技術の習得を目的としたもので、帆走、水泳、漕艇、手旗・モールス信号、救急措置、目測の項目からなり、当時の社会的役割がうかがえる →帆走選士資格検定標準(1943年5月15日) BYCもこの頃から海洋技術訓練のため、学校や各団体への水上訓練を行うようになっている。 |
戦時中の様子を示す写真は特にありません。 |
■終戦時のBYC BYCレポートは1943年10月号を最後に休刊、戦後発のレポートは1946年9月3日付けで始まっている。このレポートは8ページにもわたり、当時の動静を報じている貴重な資料である。 →琵琶湖ヨットクラブ会報(1946年9月3日号) 「執筆を怠ている間に世の中がすっかり変わりました。BYCも変わりました」から始まるレポート 内容は 会員復員情報 未生還情報 戦死情報 吉本正雄氏死去の報(1946年4月24日) 艇の供出 艇庫の状況 規約改正 関西ヨット協会の誕生 京都体育ヨット協会が誕生 第1回京都国体に向けて結成された 全国国民体育大会 ヨット競技は琵琶湖開催となり、上田氏の事務所 にて準備打合せが行われている。 島津ヨット倶楽部の誕生 8月6日に結成 ■艇の供出 県からの要請で、国内5米級2隻、国際12呎級8隻を供出、完全修理して引渡し、琵琶湖ホテルに来る進駐軍が使用する。これに対して、県より2万余円の支度金を受けた。 |
島津ヨット部 (昭和21(1946)年頃) 1947年の柳ヶ崎(KYC50周年記念誌より) |